1995年5月31日号「MAINICHI DAYLY NEWS」日本語

1995年5月31日号「MAINICHI DAYLY NEWS」日本語

「MAINICHI DAILY NEWS」に掲載された、祖母のインタビュー記事をご紹介します。

山内京子:わが京都の思い出
山内京子:京都の歴史を生きる

エド・グティエレス
寄稿記者

山内京子には人間に対する純粋な好奇心があって、誰かに会った後には必ず「いい人ね」と言うのが常でした。山内さんの心の広さとユーモアはすぐに人に伝染して、若い学生から大学教授まで、山内さんを訪ねる人は、さまざまな話題について話(やおしゃべり)をするのを心から楽しむのです。

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山内さんの魅力は、人の話を親身になって聞くだけでなく、語り部としても天性の才能に恵まれているところにあります。山内さんは日本語で話しているのに、日本語が十分には理解できない外国人の訪問客でも、山内さんと数時間おしゃべりが続いて、遅い夕食の宴になることは珍しくないのです。実は山内さん、お歳は87歳です。

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幅広のヘアバンドをして、時おり(時折)たばこをくゆらしながら、山内さんはこたつをはさんで座布団を何枚か重ねて座っています。

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山内さんは小柄で、水色の部屋着の裾から素足がのぞいています。眉は老眼鏡の上で弧を描き、ほおは艶やかです。実際の年齢よりはずっと若く見えます。伝統的な和のものと国際的なものとが奇妙に入り混じっているのは、山内さんとこたつのある茶の間との共通点です。

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こたつの上には、袋に入ったおせんべい、「I Love NY」 のマグカップ、フランス風のコーヒーカップと金色のスプーン、その日の新聞が置かれています。しっくい壁には墨絵とオレンジ色のプラスチックの時計の間にはさまって、ペルーの絵はがきが貼られています。茶だんすの棚には、輸入の洋酒が並び、雑誌やフォルダーや本がぎっしり詰まっています。すりガラスのスライディング・ドアの横には、プラスチックの地球儀が2つ、薬箱の上に乗っています。

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たばこの煙がくゆる茶の間でおしゃべりをしながら、山内さんが「おばあちゃん」だということを私は忘れそうになります。カルーアリキュールをコーヒーカップの縁から数滴落とし、「血の巡りに良いのよ。それにこうするとコーヒーの味がマイルドになって美味しいし」と断言します。山内さんは身を起こし、たばこをまた口にして、唇を丸くしてたばこの煙を吐きます。

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山内さんは幼い頃からとても社交的でした。その社交的な性格は今の彼女をめぐる状況にうまく合っています。かつては使用人の住まいに使われていた、伝統的な京町家の家主として、(現在)山内さんは20人近い世界中からの留学生の下宿人たちと一緒に暮らしています。証券会社を経営していたご主人を15年ほど前に亡くしていますが、1人ぼっち(ひとりぼっち)ではないし、のんびりしている暇もない日々を過ごしています。古い家の雑事が絶え間なく続き、下宿人たちの世話をし、芸術家や映画プロデューサーなどの友人も訪ねてきます。留学生の下宿人たちは、山内さんを同等の仲間として扱い、自分たちの活動に彼女を誘うこともよくあります。最近ではお芝居、パーティー、コンサート、生け花展や書展に出かけています。先月は、京都に住む外国人芸術家たちが催したショー、京都コネクションに行き、大勢に混ざって50人のメンバーを出し抜いて、福引きの賞品をもらいました。

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山内さんの人とのつきあい方には何とも言えない魅力があります。元下宿人だったアメリカ人は、ある禅寺のお彼岸の昼食会に一緒に行った時のことをこう回想します。会場はすでにほとんど満席で、68歳の住職の両側の2席だけが空いていました。高僧の隣りに座るのは誰も(気が引けて)好まなかったようです(が、)。山内さんはためらうことなく前に進んで、住職の隣に座りました。(後で理由を尋ねると)歳が離れているので息子のように思えて、緊張しなかったのだそうです。

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モノクロの写真をたくさん並べて、客人に全部見せることになるのが常でした。自分の人生は、過去も現在も同じくらいに並みはずれていると、山内さんは表現します。山内さんは京都のミッション系の女学校に通い、外国人との最初の出会いを経験しました。裕福な家庭の1人娘として、彼女は鴨川の畔(ほとり)の邸宅で育ちました。その家は、建築費が30万円かかり、当時としては異例の金額です。庭を手がけたのは、明治後半の作庭師第7代小川治兵衛で、庭石は洛外の鞍馬から牛車で運ばれました。(この庭は、手を加えられてはいますが、現在もホテルフジタ京都(ザ・リッツ・カールトン京都)の敷地内に現存しています。)

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この家の応接間は36畳ありました。使用人や家庭教師に囲まれて、山内さんはほとんどの時間をこの家で過ごして育ちました。当時の良家の娘の例にたがわず、彼女は社交ダンス、ピアノや伝統的なお稽古ごとを身につけ、絶えず訪れる有名人の客人をもてなすことを期待されていました。山内家の客人の例としては、日本にヨガを紹介した中村天風や俳優の早川雪舟は誰でも知っているでしょう。

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京子の父親、山内宇三郎は、20世紀初め、大正の米相場の商いで財を成しました。最盛期には、京都に150軒(も)の家を有し、貸家にしていました。しかし、宇三郎が第2次世界大戦で招集されたのをきっかけに屋台は傾き始め、混乱する経済の荒波が続き、米相場の読みが何回かはずれ、財産の多くを手放さざるを得なくなりました。戦後、山内さんは夫や2人の息子、母親と共に南禅寺の一角に住むようになりました。

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この頃、山内家は「細雪」などで有名な文豪谷崎潤一郎とその妻、松子夫人と親しい交流がありました。両家の出会いのきっかけは、谷崎家が飼っていた犬でした。谷崎家の犬が山内家の裏庭に迷い込み、1か月も山内家に居候をしてようやく飼い主が引き取りに出向きました。谷崎潤一郎の好物だった豆腐が当時は手に入りにくかったため、山内家は長男の雅夫に持たせて差し入れたりしました。お返しに贈られたのは和菓子やサイン入りの著書でした。「奥さまはやさしかったんだけれど、谷崎さんは心をみすかされるような眼差しで人をご覧になるので、怖い時もあったんです」と山内さんは振り返ります。お月見の宴の様子と客人たちを描いた『月と狂言師』というエッセイの中で、谷崎潤一郎は、京子に触れ、狂言師茂山千五郎が率いる狂言の中で踊った京子の小舞の才能に言及しています。山内家は、友情の証として谷崎家にさまざまな古美術品をプレゼントしたのですが、その古美術品は現在、芦屋市谷崎潤一郎記念会館に展示されています。