京女・山内京子について
少女・娘時代
山内家は女傑です。
曽曽祖母は江戸末期花札問屋として大徳寺などの出入りが許されていました。
曽祖父母については別ページをご覧ください。
祖母・京子は贅沢に育ちました。
平安女学院(アルバム有り)、高浜虚子から「鏡女」という俳号をいただき、俳句を嗜んだり、当時の女性雑誌で「読者モデル」のようなことをしていました。
祖母と著名人との交流
大谷光瑞、甲斐荘楠音、田中比佐良、榊原紫峰、榊原紫更、など
実に多くの芸術家、文化人との交流があり、それぞれのエピソードも深いです。
文豪 谷崎潤一郎が、ある晩の出来事を「月と狂言師」という随筆に紹介していただいています。
私の「月と」という屋号は、この本のタイトルをヒントにさせていただきました。
父・雅夫は同志社大学生時代に、よく谷崎さんにお豆腐を届けたそうです。
また、父は谷崎さんのご紹介でNHKに就職しています。
結婚後
平安女学院を卒業した祖母は、「(京大ではなく)東大卒じゃないと結婚しない!」と曽祖父を困らせて、祖父・正司が養子にきます。
結婚式は、開業したばかりの京都ホテルで結婚式を挙げました。
そこまでは、華々しい山内家でしたが、戦争や祖母の失敗(浮気癖がある)などで、いろんな苦難がありました。そうした資料も残っています。
会社が倒産した後は、さらに苦労が続き、毎晩、どんどん家の物が盗まれていったそうで、祖母は、嫌というほど「人間の本能」というものを見たように感じています。
晩年
昭和55年に祖父・正司の死去後、京都大学が近くになったことから、何故か突如、外国人留学生を対象とした下宿屋を始めました。英語もそんなにできるわけではないのですが、
持ち前の
・明るさ
・ポジティブ
・日本の伝統文化を多く身につけている
故に、大変多くの外国人学生たちから慕われました。
当時の手紙や写真も多数残っています。
ある方には、祖母・京子のことを「元祖・メンター」だと評してくださいました。
そんな祖母がいつも愛読していたのは「文藝春秋」でした。
1996年に祖母の一生?が、「MAINICHI DAILY NEWS」で紹介されました。
(こちらの翻訳したものもお見せすることができます。)
祖母が私に強く薦めてくれた本は、「大地」(パール・バック)でした。
幼い頃に超お嬢様として育った祖母は、ドラマになりそうな「いろんなエピソード」を潜り抜けて、それでも、自身のプライドや礼節を忘れず、そして、誰に対しても「同じように」接してきました。
今、LGBTや差別などいろんなニュースがありますが、祖母が生きていたら、なんて言うのだろう…そんなふうに思います。
散々、「綺麗な着物や洋服」を着てきた祖母ですが、晩年は贅沢はせず「普段着」でした。それでも、桜の花に負けない輝きを放ち、写真に写る祖母の姿が私は大好きです。
祖母・京子が昭和43年まで暮らし、父・雅夫が生まれ育ったこの家は、現在、リッツ・カールトンになっています。「鵯越将軍出世物語」は国会図書館にも納められています。
おまけ
曽祖父母は、再婚同士でした。祖母・京子は、曽祖母・栄子の連れ子です。
二人とも、とても「お茶目」で「仲の良い」夫婦だったそうです。